ピースライブ 魂の出会い 五十嵐正史vs.よう介。芸術村のライブがCDになりました。勇造の息子ふたりが火花を散らしながら、熱く歌ったトリビュートライブ。 1000円※ピースライブ会場で販売

Peace Liveな日々

豊田勇造ライブつながりのミュージシャン、 役者のライブレポートとを載せていきます。

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江上榮子

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一度だけ軍服を着たことがある。小学校入学の記念に母が作ってくれた。半ズボンで肩章は国籍不明のデザインだった。母は洋裁が得意であり、新聞紙で型紙をとり、布を買って来てミシンで縫う。近所でも親戚でも、そんなことができる人はいなかった。「既製品」という言葉はイメージが良くない。子どもの頃のよそ行きの服は、常に母のハンドメイド。
その母が大雪が降った翌日の深夜に亡くなった79歳だった。
今年になってから歩行が困難になり、介護認定を申請したばかり。亡くなった当日はデイケアの施設を見学する日だった。迎えにきたバスから母と連絡が取れないという電話がケアマネージャーに入り、ケアマネから僕の携帯に連絡がきた。早退して電車、タクシーで実家に向かうと、嫌な予感は当たっていた。
風呂の中でうたた寝をしているようだったので、苦痛はなかったと思いたい。ガスは安全装置がはたらき、すでに水風呂になっていた。119に電話して、言われた通りに心臓マッサージをした。救急と消防車まで到着。間もなく隊員が警察を呼び、警察が近所の医者を呼んで検死。事件性の有無から僕への事情調取。弟が連絡した葬儀社が来て、すぐに斎場の空きを押さえた。父の葬儀以来の親戚への連絡と、先日までの生活から一変、慌ただしい一日となった。
死亡診断書には、動脈硬化からの虚血性心疾患とあった。医者によると老人としては、風呂につかりながら「いい」亡くなり方をしたということだ。ちなみに少しでも外傷があると遺体は警察に運ばれる。
5年前の僕の大腸癌の手術には、母に付き添ってもらった。始まって5時間後に切り取られた癌細胞を医者から見せられて、鏡を見たら真っ青だったと言っていた。死にかけたという意識はないが、5年後の生存率は50%だと医者から言われていた。しかしその5年後の今年7月には癌の治療が終わる予定だった。
母は、昭和10年生まれ。幼い頃に生みの母と、中学生の頃に僕の祖父である父と死別している。戦争の記憶は、東京大空襲の夜、浦和から見た東京の空がまっ赤だったという。
僕の自慢は、母方も父方の祖父も、戦争に行っていないことだった。
父方の祖父は、子どもの頃に病気がもとで難聴になってしまった。これを知ったのは最近で、たしかに補聴器をつけていたが、歳をとってからだとばかり思っていた。
母方の祖父は、兵隊検査を受けたが不合格となってしまったそうだ。無類の酒好きが嵩じて、たんぱく質が不足したか、脚気が発覚した。孫の自慢の祖父も戦争に突き進む時代にあって、当時の男子にとってえらく不名誉なことだったに違いない。鳶の親方だったという。もともと気短かで、若い者に対しては、すぐ暴力をふるっていたようだ。
この兵隊検査が原因かは、定かではないが、とにかく一切の税金を払わなかった。なんてパンクな人だ。これぞ究極の反戦行動だ。
しかしその煽りをくったのは、母達であった。祖父は47歳という若さで肝臓癌で亡くなってしまう。残された祖母に母、その弟と妹の一家6人は、税金を滞納し稼ぎ頭まで失ったのだから即生活保護となった。高校進学をあきらめた母は、洋裁や料理を習いながら働き始めた。古い母のアルバムをめくると、与野にあったソーセージをくるビニールを作っていた会社に勤めていた当時、メーデーに参加した写真があった。60年安保では、徹夜で集会に参加したそうだ。自動車部品工場に勤めていた頃は、客の元へ集金に行っても払ってもらえないこが多かったが、そこでよくご飯をごちそうになったそうだ。おどろいたのは秋葉原デパートに勤めていたことがあった。
下の弟妹は夜間高校に進学した。
もともとは浦和で米屋を営んでいたらしいと母は言った。今でも浦和でも有名な玉蔵院という寺の檀家である。つまり裕福だった。墓はもちろん立派であるが、日露戦争の武勲を讃える墓誌が刻まれている。26歳の若さで中国の奉天で被弾。世にいう「奉天会戦」とはウィキペデイアで知った。殺されたけれど、殺したかも知れない。若者の名は「多左衛門」。貧しい家には相応しくない名。
亡くなった時の位は軍曹で、功七級の勲章と金杯に百円の年金を賜った。ここからどう転んだか、母が生まれたときはすでに浦和の裏門通りの長屋住まいだった。勲章も金杯も売られてしまって見たことはなかったそうだ。母の名前の「榮子」は、かつての栄華を願って付けられたのだろうか。
甲府にある父方の墓となると、さらに古く江戸時代からの戒名が刻まれているが、やはり裕福な生活から転落した。父は父で苦労の連続だったが、どいうわけか、鉄鋼大手の新日鉄に就職できた。僕は本当は裕福な家に生まれるはずが…と嘆いても始まらない。どちらの家も戦争に翻弄されている。
母を亡くした今、どんな命を経て、なぜ自分が存在するのか、ふと考える。
東日本大震災で親を亡くした子どもは大勢いて、今も苦しんでいる。母には、僕の子どもの頃に亡くならないでくれて、ありがとうと言いたい。
テーマ:生きるための歌 - ジャンル:音楽
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豊田勇造さんをメインに浦和でPeace Liveという音楽イベントをやっています。

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