ピースライブ 魂の出会い 五十嵐正史vs.よう介。芸術村のライブがCDになりました。勇造の息子ふたりが火花を散らしながら、熱く歌ったトリビュートライブ。 1000円※ピースライブ会場で販売

Peace Liveな日々

豊田勇造ライブつながりのミュージシャン、 役者のライブレポートとを載せていきます。

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江上榮子 完結編

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寒さもまだ厳しい二月半ばの母の葬儀に参列した叔母は、その後10日も入院するほど体調をくずした。また心筋梗塞で救急車で運ばれた親戚もいた。斎場の会食でも母と年齢が近い人は、みな食が細かった。僕も含めてみな確実に歳をとっている。
葬儀から間もなく城南信用金庫理事長の吉原毅さんの講演を聞きに行った。誘ってくれたのは、勇造ライブで宿を提供してくれるHさん。日比谷野音での反原発集会で吉原さんの発言がすばらしかったと、僕が周囲に言ったことを覚えていてくれたのだ。会場の埼玉大学に近いYさんの家に寄っていこうというので、僕もお伴することにした。Yさんは九十歳を越える女性で、埼玉の市民運動でも慕われている。実は僕の母が会いたがっていたのだ。「じゃあ、集会にくれば」というと、そこまではしたくないと言い。結局会わず終いとなった。
突然の訪問にも快く迎えてくれたYさんは、なんと1月に百歳になっていた。話の中で出た〝ちっちゃい妹〟というのが九十歳らしい。七十九歳で亡くなった僕の母はさすがに若い思った。
お茶といっしょに出してもらったのが、Yさんの好物のチョコレートと、別に立派な缶に入った高価なチョコレート。好物のチョコレートの中にはバナナの味のドロっとしたジャムが入っている。「これが私のアイドルだぁ」と言っては頬張っていた。どこぞの八百屋で売っているものらしい。
戦時中、満州で生んだ子は、みな亡くなったそうだ。庭仕事をしていた息子さんは独身で60ぐらい。現役で仕事をしているという。僕の母が長生きしていたら、我が家のモデルになるだろうに。
Yさんは教員の経験もあり、床の間には自筆の書がかけられていた。豪放な筆運びも女性らしい伸びやかな線がある。文字は人也だ。
今回の葬儀でイラっときたのが、母の白木の位牌の文字があまりに下手だったことだ。父の時の塔婆の文字も悲惨だったが、そのくせ前回の法要のデータベースはしっかり取ってある。最近の坊さんは、パソコンばかりやって筆で字を書かないのか。位牌の文字はパソコンの楷書書体だった。
質素な家族葬とはいえ、葬儀社、斎場、寺とお金に羽が生えたように飛んでいった。無論、親が残した中からだ。母は生前、質素な葬儀でいいとある葬祭業者のホームページを指定していたが、とっさに思い出せるものではない。金がなければ三途の川も渡れないこの頃、ふと自分の時はどうなるのかと考える。
母と最後に話したのは、大雪の後の雪かきの時だった。この後、バスで住んでいるアパートに戻ると、今度は隣の大きな家のおばあさんが一人で雪かきをしていたので、見兼ねて、またスコップを握った。隣家の人とはいっても実はこのおばあさんの姿を見るのは初めてなのだ。耳が悪いらしく声が大きいので、僕のベランダから声だけは聞いていた。
僕は歩道を20メートルほど雪かきして、くたくたにばてた。大いに喜んでくれたのは、このおばあさんの友達で、僕の隣の部屋に住むNさんだった。おばあさんとは友達で、大きな家に一人で住んでいる彼女を常日頃から心配していたからだ。
隣のNさんの部屋は、気の毒なことに陽が当たらなくなってしまった。ベランダのすぐ前に家が建てられたからなのだ。その家の壁の色は濃い緑であるため部屋の中は昼間も暗い。布団は屋上に干している。それ対して僕の部屋は、さんさんと陽が当たる。気の毒からではないが、僕はタイル張りの階段や踊り場を時々モップがけしている。これが大いに喜ばれるのは、Nさんが花粉症であるためだ。
3月に入って晴天の日曜日に、屋上の踊り場からモップをかけようとしたらNさんが布団を干していた。僕の母とは一度会っているので、亡くなったことを伝えた。母はNさんを「絶対じぶんより若い」と言っていたが、母より上で八十をゆうに越えていた。以前は仕事をもっていた時は、突然目がまわり、倒れて救急車で運ばれたこともあったそうだが、屋上まで布団をかついで上がるうちに、ずいぶんと健康になったそうだ。バレエのように交互に足を前に出しながら昇ると、足に筋肉がつくらしい。
「私はは百まで死ねないの」という。その理由も聞いた。
「ここから富士山が見えるのよ」とビルとビルの間を指差した。「はい、知ってます」と言ったがそれだけではなかった。屋上の端から端を移動すると富士山の全体が拝めるのだ。
母の納骨の朝、ベランダのりんごの木が一輪だけ花をつけた。「七日かけて山を越えそれを七回繰り返し、安らぎの地に着く」という、豊田勇造さんの「唇かみしめて」のフレーズどおりなら、本当にお疲れさま。








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江上榮子

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一度だけ軍服を着たことがある。小学校入学の記念に母が作ってくれた。半ズボンで肩章は国籍不明のデザインだった。母は洋裁が得意であり、新聞紙で型紙をとり、布を買って来てミシンで縫う。近所でも親戚でも、そんなことができる人はいなかった。「既製品」という言葉はイメージが良くない。子どもの頃のよそ行きの服は、常に母のハンドメイド。
その母が大雪が降った翌日の深夜に亡くなった79歳だった。
今年になってから歩行が困難になり、介護認定を申請したばかり。亡くなった当日はデイケアの施設を見学する日だった。迎えにきたバスから母と連絡が取れないという電話がケアマネージャーに入り、ケアマネから僕の携帯に連絡がきた。早退して電車、タクシーで実家に向かうと、嫌な予感は当たっていた。
風呂の中でうたた寝をしているようだったので、苦痛はなかったと思いたい。ガスは安全装置がはたらき、すでに水風呂になっていた。119に電話して、言われた通りに心臓マッサージをした。救急と消防車まで到着。間もなく隊員が警察を呼び、警察が近所の医者を呼んで検死。事件性の有無から僕への事情調取。弟が連絡した葬儀社が来て、すぐに斎場の空きを押さえた。父の葬儀以来の親戚への連絡と、先日までの生活から一変、慌ただしい一日となった。
死亡診断書には、動脈硬化からの虚血性心疾患とあった。医者によると老人としては、風呂につかりながら「いい」亡くなり方をしたということだ。ちなみに少しでも外傷があると遺体は警察に運ばれる。
5年前の僕の大腸癌の手術には、母に付き添ってもらった。始まって5時間後に切り取られた癌細胞を医者から見せられて、鏡を見たら真っ青だったと言っていた。死にかけたという意識はないが、5年後の生存率は50%だと医者から言われていた。しかしその5年後の今年7月には癌の治療が終わる予定だった。
母は、昭和10年生まれ。幼い頃に生みの母と、中学生の頃に僕の祖父である父と死別している。戦争の記憶は、東京大空襲の夜、浦和から見た東京の空がまっ赤だったという。
僕の自慢は、母方も父方の祖父も、戦争に行っていないことだった。
父方の祖父は、子どもの頃に病気がもとで難聴になってしまった。これを知ったのは最近で、たしかに補聴器をつけていたが、歳をとってからだとばかり思っていた。
母方の祖父は、兵隊検査を受けたが不合格となってしまったそうだ。無類の酒好きが嵩じて、たんぱく質が不足したか、脚気が発覚した。孫の自慢の祖父も戦争に突き進む時代にあって、当時の男子にとってえらく不名誉なことだったに違いない。鳶の親方だったという。もともと気短かで、若い者に対しては、すぐ暴力をふるっていたようだ。
この兵隊検査が原因かは、定かではないが、とにかく一切の税金を払わなかった。なんてパンクな人だ。これぞ究極の反戦行動だ。
しかしその煽りをくったのは、母達であった。祖父は47歳という若さで肝臓癌で亡くなってしまう。残された祖母に母、その弟と妹の一家6人は、税金を滞納し稼ぎ頭まで失ったのだから即生活保護となった。高校進学をあきらめた母は、洋裁や料理を習いながら働き始めた。古い母のアルバムをめくると、与野にあったソーセージをくるビニールを作っていた会社に勤めていた当時、メーデーに参加した写真があった。60年安保では、徹夜で集会に参加したそうだ。自動車部品工場に勤めていた頃は、客の元へ集金に行っても払ってもらえないこが多かったが、そこでよくご飯をごちそうになったそうだ。おどろいたのは秋葉原デパートに勤めていたことがあった。
下の弟妹は夜間高校に進学した。
もともとは浦和で米屋を営んでいたらしいと母は言った。今でも浦和でも有名な玉蔵院という寺の檀家である。つまり裕福だった。墓はもちろん立派であるが、日露戦争の武勲を讃える墓誌が刻まれている。26歳の若さで中国の奉天で被弾。世にいう「奉天会戦」とはウィキペデイアで知った。殺されたけれど、殺したかも知れない。若者の名は「多左衛門」。貧しい家には相応しくない名。
亡くなった時の位は軍曹で、功七級の勲章と金杯に百円の年金を賜った。ここからどう転んだか、母が生まれたときはすでに浦和の裏門通りの長屋住まいだった。勲章も金杯も売られてしまって見たことはなかったそうだ。母の名前の「榮子」は、かつての栄華を願って付けられたのだろうか。
甲府にある父方の墓となると、さらに古く江戸時代からの戒名が刻まれているが、やはり裕福な生活から転落した。父は父で苦労の連続だったが、どいうわけか、鉄鋼大手の新日鉄に就職できた。僕は本当は裕福な家に生まれるはずが…と嘆いても始まらない。どちらの家も戦争に翻弄されている。
母を亡くした今、どんな命を経て、なぜ自分が存在するのか、ふと考える。
東日本大震災で親を亡くした子どもは大勢いて、今も苦しんでいる。母には、僕の子どもの頃に亡くならないでくれて、ありがとうと言いたい。
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豊田勇造さんをメインに浦和でPeace Liveという音楽イベントをやっています。

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